1甲賀町滝

滋賀の薬業史より〜明治初年あるいは、それ以前の売薬行商の様子

■ 明治初年あるいは、それ以前の売薬行商の様子

 甲賀郡(現在の甲賀市)地方の売薬は、先にも述べた如く、修験者の配札から起こった。明治になってからもこうした宗教者としての面影は極めて濃厚であった。

 旅(行商)には羽織はかまの正装で、供人を従えて出かけたという。旅先では戸長の家などに先ず立寄り、大祓や般若心経をあげるのが普通であった。そうした所に村人を集めて祈祷をし、村人が持ち寄った薬の袋に持参した薬をつめたりすることもあったという。医療にめぐまれない土地の人たちは、売薬行商人を単なる商人として見ていたのではなかった。その訪れを待ち望んで、ほんとうに有難がっていたという。旅先では、生まれた子供の名付け親になったり、八卦を見たりするといったことも多かったようである。明治十七年の配札禁止令公布以降も、なお配札を続けた家もあったというし、配札はなくなっても宗教色は容易に消えたのではなかったのである。

滋賀の薬業史より〜事業家、渡辺詮吾

■ 事業家、渡辺詮吾

 売薬製造の方法が、甲南町の磯尾・竜法師から甲賀町の滝へ伝えられたのは、渡辺詮吾に負うところが大きい。渡辺詮吾は十九才の時、岡山県へ行商(配札を兼ねたものと思われる)を行ない、「テリアカ」の処方を学んで帰り、後これを製造販売している。親類にも、売薬をすすめ、さらに独立営業させるなどして、甲賀町における売薬を拡大していった。

 渡辺詮吾を中心とする初期の甲賀町の売薬は、羽織・袴すがたで、祈祷などを行なう方法であったが、配札禁止令や新政府の薬務行政の整備にともない、売薬営業の鑑札を得て売薬を行なう方向へ脱皮していった。

 今日の甲賀地方における家庭配置薬に渡辺詮吾の与えた影響は大きいが、何よりも重要な点は、個人の営業から組合・企業としての営業ヘー歩をすすめた点である。



龍福寺境内
配置薬の祖・渡辺詮吾翁の碑


洗心薬草園



薬祖、炎天神農をまつる神農社
 
 

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