■ 日野の修験
近江商人の本拠地のひとつ日野地方には、中世から近世にかけて、綿向山を中心とする修験の人びとが勢力をふるったことがあったのではないかと思われる。熊野・蔵王などの地名や笹尾峠に建てられた石碑など、綿向山麓の遺跡が山伏たちの活躍のあとをしのばせる。日野商人の行商と山伏との関係、日野の薬と山伏との関係など、今日ではまだ明らかにしえない点てあるが、今後こうしたことが解明される日がくるかも知れない。和歌森太郎氏の修験道、山伏についての書物を読んでそんな気がした。
富山にも立山信仰をひろめた修験の一派があり、室町時代から配札のための檀那まわりをしており、慶長のころには既に三河・尾張・美濃などに配札を行なっている。江戸時代には、配札のみやげに「よもぎねり」「三効草」「熊胆」などのくすりを携えるようになり、これが富山売薬「反魂丹」普及の素地になったとの説もある。大和売薬の起源が高野山を中心とする回国宗教者高野聖におこり、甲賀売薬の起源が、飯道山麓の磯尾や竜法師の修験の村から出た山伏の配札に求められることなどからみて、綿向山修験がみなおされる時がくるかも知れないと思う。
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