■ 甲賀の山伏
江戸時代の山伏は、平安−戦国の山岳修行者の山伏としてよりも、民間の祈祷師としての性格が強くなってきたといえる。大峰や地方の山々へ、季節的に峰入り修行をすることはあったが、それは自己の宗教的な力を向上しようとする意欲からではなく、対世間的な立場−即ち大峰に何度参ったかということが気づかわれるように、山伏の態度に変質が認められる、といわれる。
山伏の宗教的性格が薄らぎ、俗っぽくなったとはいえ、戦国時代あたりには、各地の大名・豪族にひいきにされ、一種の密偵の役割を与えられたりして、かなり重宝がられることがあった。しかし、徳川三百年の平安は、山伏のそうした活躍の場も奪うこととなって彼らの迎えられる世界は、封建的圧制に苦しむ民衆の、不安な生活の場に限定されてしまうのである。
出没自在で、山の天狗として畏怖の目で里びとに映じ、それゆえにまた偉大な霊威を発揮すると信じられた山伏の姿は中世のものである。近世には村人の中に入りこみ、不動明王像などを置いた堂に定着したりして、病気をなおし、憑きものを落としてやったり、運勢をみたりするといった方面に専念するようになる。
甲賀の村々の中にはそうした修験山伏が集団的に村をつくっているところもあったことは本文中に述べた。飯道山修験が中世山伏の姿とすれば、磯尾、竜法師など飯道山東麓の部落の修験は近世山伏の当然の姿であろう。松尾芭蕉は連句の中で、
「山蔭は山伏村の一かまえ」
と、こうした近江の山伏村の姿をよんでいる。こうした村々から旅に出て、祈祷やまじないに当った山伏は、近世の民衆からこよなく親しみの情をもって迎えられた。名付け親をたのむほどである。言いかえれば山伏は、近世の村の医者であり、村人の仲違いの調停をする判事であり、時には教師でもあったのである。
甲賀忍者も、中世の山伏の山岳修業の鍛錬の面に徹した姿であったろう。そしてその活躍の場は戦国時代 の乱世であったといってよい。 |