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地場産業としての生い立ち

 

 

■ 滋賀の地場産業としての医薬品産業の生い立ち

江戸時代にはいり、東海道では栗東市の和中散本舗、中山道では彦根にある神教丸の本家である、有川家など生薬の店ができ、日野町の正野家では 「万病感応丸」 が創られ、大勢の近江商人たちが道中薬として持ち歩き、その効能が話題を呼び全国に広まりました。彼ら近江商人も近江の薬業を支え、広めてきました。

赤玉神教丸本舗の有川家

赤玉神教丸本舗の有川家。
明治天皇御坐所があります。

和中散本舗 和中散本舗
現在の正野玄三家 現在の正野玄三家

渡辺詮吾さん■ 配置のおこり

現在製薬業が盛んな甲賀町の配置売薬のおこりは以下のように記されています。
「江戸末期に大字滝で渡辺太助が農閑期の副業として売薬を営み、近隣の需要に応じていましたが、次いで同じ滝の渡辺詮吾が売薬の将来性に着目し、慶応元年 (1865) 僅か19歳で岡山県北部に行商、その後当時の 「テリアカ」 の処方の伝授を受けて製造販売しました。これが油日売薬の起こりです。」 (甲賀町史)

テリアカ

会社組織としては、明治24年の近江製剤株式会社 (共同製剤所、竜法師) をかわぎりに、油日に売薬神農会 (明治25年) 、近江売薬株式会社 (明治32年) 湖東売薬株式会社 (明治35年) 、紳農売薬株式会社 (明治45年) 、大原製剤合資会社 (大原) が設立され、明治大正期には大きく進展しました。

日野町の薬業の歴史は、日野売薬の創始者初代正野玄三に始まります。初代玄三は、延宝四年 (1678) 越後で商売を身につけ、母の病気を治療した医師、名医名古屋丹水の門下になり修行をし医師となり、彼の処方した 「万病感応丸」 は正徳四年に製造されその効果が好評を得たのを機会に日野の製薬の業が広まり日野商人の主要な取り扱い商品となって全国に名をなしたのです。 (滋賀の薬業史より)

明治末年には製剤業者は51戸、売薬営業者110戸、行商をするものは四百余名に達しました。大正期に入ると更に盛んになり、昭和31年には組織が 「滋賀県薬業協同組合」 にまとめられ、設備の近代化が進み、販路も国内ばかりでなく、遠く香港、東南アジア、中近東の諸国にまで輸出が伸びました。滋賀県の家庭薬工業は富山、奈良、と並んで三大配置薬県として発展しました。

戦後の混乱を経て国民医療の充実のため、多くの会社が設立され近代化が進み昭和29年に滋賀県の薬業会の繁栄と事務の効率化のために滋賀県薬業会館が設立されました 。

更にこの建物が老朽化し会員数の増加により狭くなってきたため、昭和46年に新薬業会館が建設されました。なお同時に県内の地場企業と進出企業を含む配置業者を含めて 「社団法人滋賀県薬業協会」 が設立されました。

新薬業会館

また、製薬技術の発展のために 「薬事研究所」 、 「協同研究所」 の経過をへて昭和45年に 「滋賀県薬事指導所」 が設置されました。
そして平成15年機構改革のため、「滋賀県薬業技術振興センター」 に名称変更され、今日に至っています。

県立薬事指導所